輝く瞳の代弁者

冬の山陰から精神を守るため文章を書きます

最近聞いた曲と好きな作品語り

私は好きな曲のジャンルが限定されたことがない。だから特定のアーティストやアイドルのファンを羨ましく思ったりする。彼らはそれを繋がりにして交流が広げられるからだ。外との接触の糸口は多ければ多いほど好ましいじゃないか。

 

一方私は、自分の心情を少しでも代弁してくれる歌詞、或いは心を弾ませてくれたり感傷に浸らせてくれるメロディならば割となんでもハマってしまう。流行り物を毛嫌うほどに捻くれてもいないから恋ダンスも踊ったし「カーモンベイビーアメリカ!」と歌いながら片腕片膝を上げた。ただ雑食と名乗るには少食な自覚はある。きっと私は音楽がなくても生きてはいける。 No music still life だ。

 

〜ここ1週間で自発的に聴いたもの〜

"Solo (feat. Demi Lovato)" by Clean Bandit →洋楽

"I beg you" by Aimer →アニメ映画の主題歌 (Fate)

"Shape Of You" by Ed Sheeran →洋楽

"夏に去りし君を想フ" by Baker →ボカロ

"Asience-fast piano" by 坂本龍一 →cm曲?

"アンチテーゼ貴様" by syudou →ボカロ

"Bernkastel's theme - The Executioner" →ゲームbgm (うみねこの鳴く頃に)

"Boneless" by Steve Aoki, Chris Lake & Tujamo →洋楽

"コノユビトマレ" by JUNNA →アニメ主題歌 (賭ケグルイ)

"ダンシング" by 佐伯ユウスケ →アニメ主題歌 (弱虫ペダル)

"Touch off" by UVERworld →アニメ主題歌 (約束のネバーランド)

"月と花束" by さユり →アニメ主題歌 (Fate)

 

こうして見ると、好きな曲なんて所詮その出会いに恵まれるかどうかにかかっていると思う。人の恋愛沙汰と同じだ。浅く広く日本オタク文化愛好家の私の趣味がアニメ主題歌に偏るのは納得である。私はなにも端からアニソンそのものが好きなのではなくて、アニソンを聴く機会が多いからそうなったというだけだ。

 

ちなみに"Solo"は数ヶ月前インスタの広告のbgmに使われていたのを気に入って見つけたものだし、"Shape Of You"は一昨年ワシントンD.C.にいる友人を訪ねに行った時、聴かせてもらって知った。一見して縁遠そうな洋楽にもこのようにして出会う。大衆、不特定多数に向けられる楽曲も、受け取る個人にはユニークな思い出がある。創作物全般に言える面白さよ。

 

話は脱線するが、私は上記ゲームbgmにある"うみねこの鳴く頃に"が大好きだ。冗長的だのトリックが無理やりだの悪評高く、何よりオチがとんでもない定石破りだが、それでも見過ごせない魅力が本作にはある。十代特有の恋に使う生命力、その永く残酷な時間感覚、大人になりきれない大人、メタ世界を更に俯瞰するメタ世界…などなど。ネタバレになるかもしれないのであまり多くは語れないが、あの世界がエゴを制御できなくなった"魔女"の微睡みでしかないと理解するのにだいぶ時間を要した。なにせ本作でははっきりとそのように言及してくれなかったからな。自分で読み取るしかない。そして魔女の心情に寄り添うのならそれに気づいてはいけない。1周目プレイでなんの解説や他人の解釈なしに理解するのは不可能に近いと思う。

 

だいぶ脅してしまったけど、ぜひ第1章だけでもいいので"うみねこの鳴く頃に"をプレイなり視聴なりしてください。

 

自分の感性を信じる難しさ

劇場はタバコ臭かった。頭痛がした。私はアルコール、カフェイン、ニコチン…諸々に弱い。しかし多くの人がこれで正気を保っているという。同じように他者の裸も人によって薬や毒になり得るのだろう。事実、結論から言うと私にとっては目の毒だった。

 

まず私の目を引いたのは周りのおじさんたちだった。何故なら彼らは私と同じ観測者だ。この一点をもって、この空間内では私たちは同質な存在だ。だから彼らがどのように在るかを見定めれば、自分の在り方が確認できると思った。

 

新聞を読む人、寝る人、誰もいない幕の閉じた舞台をただ見つめて待つ人。彼らは他の観客には一切無関心だった。だから私も、ざっとその様子を確認した後、彼らに対してなるべく無関心であるよう務めた。

 

ショーが始まる。大きな録音済みの音楽が聞こえる。音質の悪い、鼓膜を凹ませるような音。私は大きな音が苦手だ。カラオケも苦手。たとえ音質がよかろうと、必要以上に耳を虐めるライブやコンサートにも苦手意識を持っている。これらは仕方のない受け入れるべき騒音なんだろう。他者は平気なのかもしれない。だから私も平静を装う。思えば大学1年生の時からそうだった。ダンスサークルでこんな音と共に踊ったのだった。

 

どの踊り子も最初の1曲は普通に踊り、次の曲で服を脱いでいった。先に言っておくとこのパターンに例外はなかった。

 

ショーの初めの初め、一人目の1曲目、私は退屈していた。確かに踊り子も、周りのダンサーも可愛い。特に肌の手入れが徹底されていて、新雪のようだった。スタイルも悪くない。しかし彼女らの踊り、顔の造形、衣装に3500円分の鑑賞料を感じなかった。これが母校の学園祭ならば、或いは友人が出演している舞台ならば手放しに称賛しただろう。しかし私はこのショーに観客という立場以外の一切の繋がりを持たない。だから冷めていた。そして否応無しにわかる。このショーの真の見どころは、彼女らが脱ぐところにかかっているのだ、と。なので多少苛立ちを覚えるほどに、私は2曲目を待っていた。

 

ようやく踊り子の胸が露わになる。抱いた感想は物珍しさ。私は視力が悪いから温泉に行っても他者の裸がぼやけてよく見えない。私が物心ついて以来の地上波放送は、女性の胸を映さない。私も普段自分からわざわざ他人の胸の画像や映像を探すことはない。自分以外のおっぱいをまじまじと見る機会なぞそうそう無い。なるほど、乳房や乳輪などの形や色は目鼻立ちと同じように個々人で違うものか。それもそうか。わかっていたことじゃないか。

 

それよりも異様だったのは、上記のような見たままの身体の構造ではなく、周囲の雰囲気だった。女性が裸で踊っている。多くの男性がまるで魂を吸われたように無表情でそれを眺めている。スポーツ観戦者のような喜怒哀楽は見えない。映画を見ている感覚と近いのか?ニヤケている人はいないが、退屈している様子の人もいない。皆真剣だ。女性は笑顔で踊っている。その滑らかな動きからはそれまでの努力が見て取れた。この女性は、裸で踊る様子を観てもらう為に努力を積み重ねたのか。

 

何故だ?ストリップは稼ぎが良いのか?そんな訳はない。本当に金の為に頭を使うならなんらかの資格を取ればいい。本当に金の為に身体を使うならもっとストレートに稼げばいい。金という価値だけでは、破廉恥だが難易度の高い踊りを完成させ体型と美肌を維持するのに要する時間と努力に見合わない。彼女たちは一体ストリップに何を見出しているのか。自分が美しくあることの証明、くらいしか思いつかなかった。それはかつて自分がダンスサークルに入部する動機だった。

 

第一、商売とは言え何故笑っていられる。商売でなければ私はすぐにでも自分の上着を踊り子に掛ける為に飛び出し、周りの男性を牽制する場面だった。踊り子は恥ずかしくないのか。悔しくないのか。決して彼女たちを責めているのではない。私は同じ女性として勝手に羞恥心を抱いていた。傲慢にも助けたいなどと一瞬思った。しかし彼女たちはあまりにも自信に満ちていて、堂々としていた。観客の男性陣からも、彼女たちを蔑むような悪意は感じなかった。場違いなのは私だった。そうだ、そもそも私は観客として男性陣と同質なはずじゃないか。タバコ臭かった。頭が痛く、考えるのが面倒になった私はやっと劇場内を現実や常識と切り離して、ただショーを鑑賞するに徹することにした。

 

曲のクライマックスで踊り子は自分の性器を観客に見せつける。身体が柔軟なことだ。踊り子のいる花道の先端(すっぽんと言うらしい)は昭和のラブホの回転ベッドさながらゆっくりと回転する。回転につれ性器を目の当たりにした観客から拍手が湧き上がる。タバコの臭いで麻痺していた嗅覚だが、確かに醤油のような発酵物の臭いを覚えた。気のせいだろうか。

 

生々しい。字義通りに生々しい。

 

欧米人が蛸を忌むのに似た感覚だろう。飾らない性、隠さない性とはこうもグロテスクなのか。挑発的で楽しげな洋楽と多彩なスポットライト、良いものに捧げられる拍手と踊り子の屈託のない笑顔がミスマッチだった。ミスマッチだった、と今なら思える。あの時は空気に呑まれてただ拍手をしていた。

 

初めてだから違和感を覚えるのか?自分が男性だったら純粋な興奮のみ感じたのか?煙って混乱した頭では結論が出なかった。

 

ここに緻密な描写を残すこともできるが、そんなことはしない。生物の教科書でも開くといい。あなたはあれを美しいと感じるか?

 

美しいの対義語とはなんだろう。汚い、だろうか。性器を汚いとは思わなかった。生々しくて目を背けたくはなるが、それでも彼女たちの身体の一部を否定することは自己否定に繋がるからできない。ただ、布で隠されていた方が胸も下半身も魅せ方の幅が広がると感じた。

 

それ以降の演目も全て、1曲目服飾ありきでこそ私は美しいと感じた女性たちが、2曲目でその美しさを剥ぐものだった。

 

あのショーに敢えて性的興奮用途以外の観点、芸術性を見出すのなら、そのテーマは "reveal" といったところか。ただ同じ女性である私は、彼女たちの裸体が暴かれたところで何も新しい発見をしなかった。女体に種族としての同一性を覚えただけだった。なんならマグロの解体ショーやラットの解剖実験の方がこのテーマにそぐわしいかもしれない。

 

しかしあの空間、あの雰囲気が他者の裸を芸術として成立させていた。音響と照明と観客。あの魔法は恐ろしい。舞台が出来上がれば、駄作であろうと作品は自動的にできてしまうのだな。

 

もし踊り子が男性だったら私はどう感じたのだろう。中学生の時、電車の中で露出狂に会ったことがある。あの時は混乱、怒り、気持ち悪さが脳内に渦巻いていた。もし顔もスタイルも優れている男性が、音響と照明と観客の力を借りて作品として全裸で舞台に上がったら、私は虜になるのだろうか。こればかりは観たことがないので分からない。

 

もし踊り子が友人だったら?より羞恥を勝手に覚えてしまうだろうか。好きな人だったら?分からない。

 

自分の感性に正直に、周りに流されずあのショーを思い返すのなら、あれは別段きれいでも汚くもなかった。身体の手入れは丁寧にされているから汚くない。かといって芸術としての美しさが語れるほどでもない。何も新しくはない。刺激はなかった。

 

「刺激はない」という驚き、こうやって何かを思考するきっかけ。この2点が得られただけでもまあ満足しないとな。

きれいは汚い 汚いはきれい

2月の後半に金を払って女の裸を観に行った話。

語弊なく言うと浅草ロック座のストリップショーを観に行った話。

 

さっさと勉強に着手すれば良いのに、私の価値なんてそれくらいしか見出せないのに、相変わらず無為に日々を過ごしていた。その間娯楽享楽にふけることもなく、ただただ休みをとっていた。楽しむ体力も苦しむ覚悟もなかった。この頃疲れているのだ。覚悟がないのだ。迷っているのだ。

 

長い休みの中で刺激を欲しつつも怠惰を貪る自己矛盾にずっと目を瞑っていたが、それを脱する機会というのはポンっと偶然にも手に入るものである。

 

私は若さの割に疲れた人だがそれ故、最低限社会を生き抜く為に人との約束は大抵違えない。人と会う約束をすれば這ってでも東京に出る。ただその日を一日間違えてしまった。つまり友人と会うはずの前日に一人、用もないのに私は都内にいた。

 

なんの為に自分は東京にいるんだ?自分への怒りよりも猛烈な虚脱感が勝った。そこで私は安直な考えを思いついた。刺激を得てなんとかこの虚無から抜け出したい。しかし体力も思考力もない。安い刺激。ローリスクな刺激。人間の三大欲求。ヒトのカタチ。原始の興味。他者の裸。

 

ストリップショーであれば観測者である私は物理的になんの影響を受けることもない。それでいて精神に何かしら変化が起きれば上々。女体そのものやそれを活用したビジネスに新しい気づきを得るのも良い。芸術的に触発されるのも良い。なんなら新しい性的嗜好を得ても良い。私は1mmでも良いから変わりたかった。<続く>