輝く瞳の代弁者

冬の山陰から精神を守るため文章を書きます

自分の感性を信じる難しさ

劇場はタバコ臭かった。頭痛がした。私はアルコール、カフェイン、ニコチン…諸々に弱い。しかし多くの人がこれで正気を保っているという。同じように他者の裸も人によって薬や毒になり得るのだろう。事実、結論から言うと私にとっては目の毒だった。

 

まず私の目を引いたのは周りのおじさんたちだった。何故なら彼らは私と同じ観測者だ。この一点をもって、この空間内では私たちは同質な存在だ。だから彼らがどのように在るかを見定めれば、自分の在り方が確認できると思った。

 

新聞を読む人、寝る人、誰もいない幕の閉じた舞台をただ見つめて待つ人。彼らは他の観客には一切無関心だった。だから私も、ざっとその様子を確認した後、彼らに対してなるべく無関心であるよう務めた。

 

ショーが始まる。大きな録音済みの音楽が聞こえる。音質の悪い、鼓膜を凹ませるような音。私は大きな音が苦手だ。カラオケも苦手。たとえ音質がよかろうと、必要以上に耳を虐めるライブやコンサートにも苦手意識を持っている。これらは仕方のない受け入れるべき騒音なんだろう。他者は平気なのかもしれない。だから私も平静を装う。思えば大学1年生の時からそうだった。ダンスサークルでこんな音と共に踊ったのだった。

 

どの踊り子も最初の1曲は普通に踊り、次の曲で服を脱いでいった。先に言っておくとこのパターンに例外はなかった。

 

ショーの初めの初め、一人目の1曲目、私は退屈していた。確かに踊り子も、周りのダンサーも可愛い。特に肌の手入れが徹底されていて、新雪のようだった。スタイルも悪くない。しかし彼女らの踊り、顔の造形、衣装に3500円分の鑑賞料を感じなかった。これが母校の学園祭ならば、或いは友人が出演している舞台ならば手放しに称賛しただろう。しかし私はこのショーに観客という立場以外の一切の繋がりを持たない。だから冷めていた。そして否応無しにわかる。このショーの真の見どころは、彼女らが脱ぐところにかかっているのだ、と。なので多少苛立ちを覚えるほどに、私は2曲目を待っていた。

 

ようやく踊り子の胸が露わになる。抱いた感想は物珍しさ。私は視力が悪いから温泉に行っても他者の裸がぼやけてよく見えない。私が物心ついて以来の地上波放送は、女性の胸を映さない。私も普段自分からわざわざ他人の胸の画像や映像を探すことはない。自分以外のおっぱいをまじまじと見る機会なぞそうそう無い。なるほど、乳房や乳輪などの形や色は目鼻立ちと同じように個々人で違うものか。それもそうか。わかっていたことじゃないか。

 

それよりも異様だったのは、上記のような見たままの身体の構造ではなく、周囲の雰囲気だった。女性が裸で踊っている。多くの男性がまるで魂を吸われたように無表情でそれを眺めている。スポーツ観戦者のような喜怒哀楽は見えない。映画を見ている感覚と近いのか?ニヤケている人はいないが、退屈している様子の人もいない。皆真剣だ。女性は笑顔で踊っている。その滑らかな動きからはそれまでの努力が見て取れた。この女性は、裸で踊る様子を観てもらう為に努力を積み重ねたのか。

 

何故だ?ストリップは稼ぎが良いのか?そんな訳はない。本当に金の為に頭を使うならなんらかの資格を取ればいい。本当に金の為に身体を使うならもっとストレートに稼げばいい。金という価値だけでは、破廉恥だが難易度の高い踊りを完成させ体型と美肌を維持するのに要する時間と努力に見合わない。彼女たちは一体ストリップに何を見出しているのか。自分が美しくあることの証明、くらいしか思いつかなかった。それはかつて自分がダンスサークルに入部する動機だった。

 

第一、商売とは言え何故笑っていられる。商売でなければ私はすぐにでも自分の上着を踊り子に掛ける為に飛び出し、周りの男性を牽制する場面だった。踊り子は恥ずかしくないのか。悔しくないのか。決して彼女たちを責めているのではない。私は同じ女性として勝手に羞恥心を抱いていた。傲慢にも助けたいなどと一瞬思った。しかし彼女たちはあまりにも自信に満ちていて、堂々としていた。観客の男性陣からも、彼女たちを蔑むような悪意は感じなかった。場違いなのは私だった。そうだ、そもそも私は観客として男性陣と同質なはずじゃないか。タバコ臭かった。頭が痛く、考えるのが面倒になった私はやっと劇場内を現実や常識と切り離して、ただショーを鑑賞するに徹することにした。

 

曲のクライマックスで踊り子は自分の性器を観客に見せつける。身体が柔軟なことだ。踊り子のいる花道の先端(すっぽんと言うらしい)は昭和のラブホの回転ベッドさながらゆっくりと回転する。回転につれ性器を目の当たりにした観客から拍手が湧き上がる。タバコの臭いで麻痺していた嗅覚だが、確かに醤油のような発酵物の臭いを覚えた。気のせいだろうか。

 

生々しい。字義通りに生々しい。

 

欧米人が蛸を忌むのに似た感覚だろう。飾らない性、隠さない性とはこうもグロテスクなのか。挑発的で楽しげな洋楽と多彩なスポットライト、良いものに捧げられる拍手と踊り子の屈託のない笑顔がミスマッチだった。ミスマッチだった、と今なら思える。あの時は空気に呑まれてただ拍手をしていた。

 

初めてだから違和感を覚えるのか?自分が男性だったら純粋な興奮のみ感じたのか?煙って混乱した頭では結論が出なかった。

 

ここに緻密な描写を残すこともできるが、そんなことはしない。生物の教科書でも開くといい。あなたはあれを美しいと感じるか?

 

美しいの対義語とはなんだろう。汚い、だろうか。性器を汚いとは思わなかった。生々しくて目を背けたくはなるが、それでも彼女たちの身体の一部を否定することは自己否定に繋がるからできない。ただ、布で隠されていた方が胸も下半身も魅せ方の幅が広がると感じた。

 

それ以降の演目も全て、1曲目服飾ありきでこそ私は美しいと感じた女性たちが、2曲目でその美しさを剥ぐものだった。

 

あのショーに敢えて性的興奮用途以外の観点、芸術性を見出すのなら、そのテーマは "reveal" といったところか。ただ同じ女性である私は、彼女たちの裸体が暴かれたところで何も新しい発見をしなかった。女体に種族としての同一性を覚えただけだった。なんならマグロの解体ショーやラットの解剖実験の方がこのテーマにそぐわしいかもしれない。

 

しかしあの空間、あの雰囲気が他者の裸を芸術として成立させていた。音響と照明と観客。あの魔法は恐ろしい。舞台が出来上がれば、駄作であろうと作品は自動的にできてしまうのだな。

 

もし踊り子が男性だったら私はどう感じたのだろう。中学生の時、電車の中で露出狂に会ったことがある。あの時は混乱、怒り、気持ち悪さが脳内に渦巻いていた。もし顔もスタイルも優れている男性が、音響と照明と観客の力を借りて作品として全裸で舞台に上がったら、私は虜になるのだろうか。こればかりは観たことがないので分からない。

 

もし踊り子が友人だったら?より羞恥を勝手に覚えてしまうだろうか。好きな人だったら?分からない。

 

自分の感性に正直に、周りに流されずあのショーを思い返すのなら、あれは別段きれいでも汚くもなかった。身体の手入れは丁寧にされているから汚くない。かといって芸術としての美しさが語れるほどでもない。何も新しくはない。刺激はなかった。

 

「刺激はない」という驚き、こうやって何かを思考するきっかけ。この2点が得られただけでもまあ満足しないとな。